クリスマスが近づくとほんの4年前のことが、ずいぶん昔のように思い出されます。

あの日の決心、そして実行が、10年以上苦しんだ不妊の事実に1年未満でピリオドを打つことになるなんて、今考えても夢のようです。
「女として生まれたからには母親になりたいと願うのは当たり前のこと」そう言って高齢の妊娠出産を励ましてくれた友達もいました。
決心するまでは本当に辛く苦しい道のりでした。でもあの日のAさんとの巡り会いのおかげで私はそれまでの半生をすべて吐露することができ、数時間かけて話し、受け入れていただき、そして次への新しい一歩を踏み出すことができたのです。本当に感謝しても仕切れません。実際Aさんにお世話になるまで、ほかにもネットにある数社に電話してみました。でもこちらは渾身の勇気を振り絞って電話しているのに、全く事務的だったり、困っている足元を見て高飛車だったり、話にならないところばかりでした。でもAさんは違いました。まるでカウンセラーのように、これまで歩んできた不妊治療の道のりや仕事との両立の困難さを真心を込めて傾聴してくださいました。だからこそ、勇気を出して一歩踏み出せたのだと思います。
腹を決めて崖を登るような気持ちで取りかかった私にとって、費用もさることながら、仕事をしながらどうやってハワイに長期間渡航するか、本当に頭を悩ませました。しかし一番の障壁は世間の目でした。これは今もついて回ります。でも後悔や迷いは一切ありません。母になれた喜び、日々の暮らしがもたらす大きさ。子どもができて、初めて時間の流れは目に見えるものだと感じられました。子どもがいる人生と、いない人生ではすべてが違います。子どもがいる大変さは、すべて幸せにつながっているように感じられます。夜中の授乳も、おむつ替えも洗濯も、わずらわしさも。この頃、「辛い」という漢字と「幸せ」という漢字はよく似ていると思うようになりました。子育てはまさにこの辛さと幸せが表裏一体になっている状態だと思います。まさにこれが生きている実感です。子供が無く不妊治療しているときは、人生が足踏み状態で、何かを待っている、そう、行き交う人を眺めながらじっとバスを待っているような気分でした。それだけならまだしも、みんなが幸せそうにバスに乗っていくのに自分だけが取り残されて待ちぼうけをしているような気分でした。マンションのエレベーターで子どもと乗り合わせるのがつらくて、わざと避けていました。何度試みても妊娠判定で結果がダメだったときは、お前はダメな人間なんだと、モグラたたきのモグラになったような気分になり、次第に自尊心が失われ、ホルモン療法の副作用も重なり鬱になっていきました。
あきらめて養子縁組を希望し、里親制度に登録し、里親になるための研修を夫婦で何度も受講し、粘り強く紹介を待ちました。でも仕事中児童相談所からの私用電話に出る時間を作ることさえもできず、気持ちとは裏腹に時間だけが過ぎてゆき、結局両親の年齢が高すぎるという理由で、一方的な通告(紙切れ1枚)で養子縁組に費やしたすべての労力や希望がついえたのでした。
日本の養子縁組制度に見切りをつけた私たちは、ベトナムから養子をもらうことはできないかと知人に相談。(ベトナムの人は優秀でかわいいと主人が言ったので)外務省に電話をしたこともありました。電話応対の雰囲気から、一個人が電話していいところではないと感じ、あまりに大それたことをしでかしているように思い断念しました。そしてそんな時もあきらめず続けて守ってきた仕事への意欲も自尊心の失墜とともにどんどん失われ、かろうじて仕事を続けていっているような毎日でした。
そんな毎日を変えようと決意したのは肉親の死でした。このまま生まれ変わるのを待つ人生(自然妊娠は不可能と思いました。)ではなく、どんなことをしても子供のいる人生を選びたい。と強く願ったのでした。そして実行に移しました。ここまで本当に長い長い道のりでした。年齢を重ね、これからはもっと長い道のりになると思います。でもこの子のためなら何でもできる。なんでもして見せる。という強い決意が私たち夫婦を支えています。今後のことはわかりませんし、この子が成長し、年を取った両親をどう思うかもわかりません。けれども、私たちの掛値のない愛情に曇りはありません。自分を、自分と一緒に人生を歩いてくれる家族を信じてこれからの人生も歩いていきたいと思います。
最後になりましたが、Aさん、本当に有り難うございました。これからも幸せコーディネーターとして、悩める夫婦を幸せな親にしてあげてください。